Seika Town Kyoto
知っているようで知らない精華町
その魅力を再発見するWEBマガジン
07 | July 2022

精華のふるさとを戦乱から守る!山城国一揆

長引く戦火で荒廃したふるさとを守るため、若者から壮年、年配の人にいたるまで心を一つに。平和的な交渉によって実りの大地をよみがえらせようという願いが見て取れます。

 山城国一揆の発端は、1467(応仁元)年から起こる応仁の乱にさかのぼります。室町幕府8代将軍・足利義政の後継者争いに始まり、騒乱は全国の守護大名を二分して実に11年に及びました。特に70(文明2)年以降は、南山城地域が舞台となり、下狛大北城などをめぐって相楽地域の農村武士も東西各軍に分かれて激しく衝突したのです。

 77(文明9)年にいったん戦乱は終結したものの、畠山義就よしなり(西軍)と畠山政長まさなが(東軍)の小競り合いは続きます。長引く戦火でふるさとは荒廃しました。さらに、兵粮米ひょうろうまいの徴発や陣地づくりの人夫として駆り出され、農民ら民衆の厭戦気分は高まる一方でした。

 業を煮やした人々は立ち上がります。
 85(文明17)年冬、上山城三郡(久世、綴喜、相楽)の国衆くにしゅう(国人こくじん)と呼ばれる地方領主や地侍たちによる集会が開かれ、農民たちも寄り集まってきました。これが「山城国一揆」の始まりでした。
 その様子は、『今日、山城の国人集会す、上は六十歳、下は十五六歳と云々うんぬん、同じく一国中の土民どみん等群集し、今度両陣の時宜じぎを申し定めんがための故と云々 』とあり、若者から壮年、年配の人にいたるまでが心を一つにした様子が伝わってきます。

一揆勢と両畠山軍との交渉は難航しましたが、「国衆より両陣に厳密に問答す、迷惑せしむ」と人々は団結して強気の姿勢を貫きました。もちろん、両畠山軍には稲八妻氏や大北氏など精華地域の国衆も参陣していたはずです。しかし、山城国一揆は武力ではなく、平和的な交渉によって無益な合戦を終わらせようとしました。そこには、実りの大地をよみがえらせようと願う、農民ら民衆の思いが強く影響していると研究者はみています。

 そして、ついに撤退を実現させただけではなく、「畠山氏の南山城への立ち入りを禁じる」「荘園を元の持ち主に返す」「新しい関所は設けない」などを決議して、地域の自治に踏み出したのです。

さあ、精華の先人が戦乱から守り抜こうとしたふるさとを眺めてみましょう。

 精華町役場から北西へ、「せいか山の辺の道」と呼ばれる趣ある町並みを歩きます。左手には田畑や民家の向こうに小高い丘陵がいくつも連なります。北稲八間の運動公園を西へ。畑の脇を通り抜け、竹林の登り坂をしばらく行くと、配水池のタンクが見えてきました。

最後は階段。登りきると、ご褒美のような眺望が。民家のいらかの向こう、都を支えた豊かな穀倉地帯の青々とした風景が木津川を挟んで広がっています。この「城山」こそ、「山城国一揆の終焉しゅうえんの地」の重要な史跡かもしれません。

 掟によって、地域の警備や道路の管理、年貢米の徴収などを自主的に行った住民たちですが、しばらく経つと、ほころびが生じてしまいます。そして1493(明応2)年夏、結局は守護職による統治を受け入れ、国一揆は崩壊したのです。

 しかし、国衆ら数百人は稲屋妻城に籠城し、激しく抵抗しました。最後の砦の場所として諸説あるなか、最有力なのがこの「城山」です。確かに、ここからならば、敵が陣を張ったといわれる菅井や祝園も容易に一望できたことでしょう。稲屋妻城の戦いは、双方に大勢の討ち死にを出す激戦の果て、国人衆の敗北に終わりました。

 城山のふもと、共同墓地の一角に、十数基の五輪塔と地蔵石仏が建っています。地蔵には「天文六年」(1537年)「逆修ぎゃくしゅ人数十四人」と刻まれています。逆修とは、「生前に死を覚悟した自身や、若くして亡くなった者の冥福を祈る」という意味で、一揆から半世紀後に建てられた塔のため、国一揆の戦死者の供養塔ではないかという説もあります。今も手向けられる花は絶えず、ふるさとの自治を守るために闘った先人への深い思慕が伝わってきます。

武内神社

祭神の神話ヒーローは二〇〇歳超?

 古事記や日本書紀にも登場する伝説の武将武内宿禰たけのうちのすくねを祭ったのが起源。宿禰は仁徳など歴代天皇に忠誠を尽くして200年以上の長寿を誇り、戦前には紙幣にも肖像が用いられたヒーローです。本殿は江戸前期建立で京都府登録有形文化財、鎮守の森も府文化財環境保全地区に指定されています。

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