蓮台寺(れんだいじ)
文禄2(1593)年、寺号を青蓮奄から蓮䑓寺に変えたと伝わっています。その後、寛文10(1670)年、本空弓覚が復興しました。近くにあった願成寺の仏像や什物が移されています。
阿弥陀如来坐像(本尊):1躯
江戸時代の作です。脇侍である観音・勢至両菩薩像も同時の作です。
地蔵菩薩立像:1躯
室町時代の作です。元禄15(1702)年に寄進された厨子の裏書から、本町丸山古墳伝承地に祀られていたとされる四宮神社の本地仏「延命地蔵菩薩」であったことが確認できます。
木造薬師如来立像(薬師堂本尊):1躯[京都府暫定登録文化財][町指定有形文化財]
平安時代前期(9~10世紀)に制作されたもので、奈良時代の作風が伺える精華町で最も古い仏像のひとつです。高さは約52.2センチメートル。螺髪(貼付、欠失)、白毫(欠失)をあらわし、左掌上に薬壺を載せ、右手は施無畏印(両手先・持物は後補)で立っています。螺髪貼付、両手先・両足先を矧(は)ぐ他は完全な一木造(いちぼくづくり)ですが、右足脛部に方形の孔を穿ち、蓋板(後補)を当てています。全体に白色顔料の痕跡が認められます。
堂内には、薬師瑠璃光如来の脇侍である日光・月光両菩薩像、および眷属の十二神将が安置されていますが、これは江戸時代のものです。
厨子内にある天保10(1839)年の木札の銘文からすると、蓮台寺の近くにあった願成寺の像と考えられます。同寺の什物である愛染明王坐像(紙本着色、80.5cm×39.1cm)の裏面にある天保13(1842)年の修理銘にも、願成寺重宝と記されています。また、本堂裏に集められた五輪塔基部(残欠)の一つに、永正7(1510)年の銘が刻まれています。
木造菩薩立像:1躯[京都府暫定登録文化財]
平安時代後期(10世紀)の作です。背部から内刳りに入れられた窓を通して、前面内刳り面に書かれた墨書を見ることができます。中古の記銘です。
「加久はかり 六はらみつを さとり[な]は [か]のくた[ら]まて [ ]と[ ][ ]」
この他に、いずれも江戸時代の作と思われる西国三十三番観音菩薩、不動明王立像(2躯)、弘法大師坐像をはじめ、板絵著色釈迦三尊図などを蔵しています。
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願成寺について
真言宗の寺院であった願成寺(願成院)は、文明17-25(1485-1493)年、「戦国時代の国民議会」として名高い山城国一揆(やましろのくにいっき)の終焉を告げた、稲屋妻城の合戦で命を落とした人々の菩提を弔うために建立されたと伝わっています。
江戸時代には南山城三十三所巡礼の観音霊場に組織され、多くの参詣者で賑わったと予想されますが、廃仏毀釈により廃絶し、明治7年、蓮䑓寺に合併されました。
願成寺は南山城三十三所巡礼の観音霊場の第十二番札所です。
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<所在地> 精華町大字南稲八妻小字政ヶ谷132番地
<連絡先> 0774-94-2014
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更新日:2022年08月09日